速水御舟 (はやみ ぎょしゅう) 『名樹散椿』
制作年 1929
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 二曲一双
技法等 紙本金地彩色
重要文化財
山種美術館
[情報]
速水御舟 (1894-1935)
『炎舞』の項を合わせて参照。
『炎舞』も素晴らしい作品だが、こちらも近代日本画史上の最高傑作の一つに違いない。
『名樹散椿』は、京都市北区にある昆陽山地蔵院(俗称椿寺)の樹齢400年といわれた古木を描いたもの。今は枯れてしまって見ることはできないが、白・紅・桃色・紅白絞りと種々の華麗な花を咲かせ、しかも山茶花のようにひとひらずつ散る五色八重散り椿として有名だった、らしい。
背景の金地は金箔でも金泥でもなく、金砂子(金の細粉)を一面に撒き散らす「撒きつぶし」という技法が用いられており、これによって金箔と金泥の中間的な質感、つまり、光沢が抑えられるとともにフラットな金地が実現している。
前田青邨 (まえだ せいそん) 『洞窟の頼朝』
制作年 1929
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 二曲一隻 190.5×269.9
技法等 彩色
重要文化財
大倉集古館
[情報]
前田青邨 (1885-1977)
梶田半古の門下となり、小林古径と出会う。また、紅児会に参加し、今村紫紅、安田靫彦らの俊英とともに研鑚を積む。37歳のとき、小林古径とともに日本美術院から1年間のヨーロッパ留学の機会を与えられ渡欧している。
歴史画を主軸に風景、風俗、花鳥、人物と幅広く描く。小林古径、安田靫彦と並んで院展の三羽鳥と言われた。本人によれば、「歴史画といっても、結局は美しいものの創造であり、歴史を借りて自分の夢を描くものだといえましょう。」
戦後においても独自の画風を発展させ、日本画壇の発展に大きく貢献している。弟子に平山郁夫。
『洞窟の頼朝』は、青邨の前期武者絵の総決算と言われる作品。
小林古径 (こばやし こけい) 『髪』
制作年 1931
寸法(タテ×ヨコ) 170.0×108.2
技法等 絹本彩色
重要文化財
永青文庫美術館
[情報]
小林古径 (1883-1957)
『極楽井』 の項を合わせて参照。
『髪』は、古径の線描の特色がいかんなく発揮された名作で、古径の最高傑作と言われている。
簡潔に力強く描かれた線と単純な色彩により、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の体温や皮膚の柔らかい感触まで、繊細に描き出している。この作品は、裸体画として、日本で初めて切手のデザインとなった。
川端龍子 (かわばた りゅうし) 『草の実』
制作年 1931
[ 上:右隻 下:左隻 ]
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 六曲一双 177.5×727.2
技法等 絹本彩色
龍子記念館
[情報]
川端龍子 (1885-1966)
当初は西洋画を学んだが、1913年の訪米後は日本画に転向する。日本美術院同人となるも、当時の繊細で優美な作品が持てはやされる風潮のなか、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を提唱して「青龍社」を旗揚げし、独自の芸術を切り開いた。
日本画の型を破る奇抜、豪放、大画面の超大作を次々と生み出し、近代日本画の異端者、在野の巨人と呼ばれる。
『草の実』は、金銀泥を用いて紺地に秋の雑草を描いたシンプルな画題であるが、濃紺と金の見事な対比と迫力のある大画面構成が見るものに強烈なインパクトを与える作品となっている。
福田平八郎 (ふくだ へいはちろう) 『漣』 (さざなみ)
制作年 1932
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 二曲一隻 157.0×184.0
技法等 絹本彩色
重要文化財
大阪新美術館建設準備室
[情報]
福田平八郎 (1892-1974)
竹内栖鳳らに学び、京都を中心に活躍。出世作に大正10年(1921年)の『鯉』という作品があり、水の中の鯉の僅かな遠近の差異を、精妙な色使いと濃淡によって見事に描き分けている。
『漣』は、プラチナ箔の上に群青一色で水面に揺れる波だけを描くという、それまでの日本画の常識を覆す斬新さによって画壇に衝撃を与えた作品。
日本画モダンの象徴的作品であり、近代日本画が新境地を開いた先駆的な試みとして高く評価されている。プラチナ箔の下に金箔が重ねられていたことが近年の修復で判明。
上村松園 (うえむら しょうえん) 『母子』
制作年 1934
寸法(タテ×ヨコ) 168.0×115.5
技法等 絹本彩色
重要文化財
東京国立近代美術館
[情報]
上村松園 (1875-1949)
京都画壇を代表する女流画家。凛として気品あふれる正当的美人画を描き続けた。子に日本画家の上村松篁がいるが、未婚の母として相手については多くを語っていない。
女性の社会進出を厭う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。
『母子』は、母を追慕する格調高い作品。同時にこの作品の発表には、当時の帝展出品作の傾向への批判や、当世風俗において急激な西洋化により古き良きものが失われていくことに対する懸念が込められていると言われている。
上村松園 (うえむら しょうえん) 『序の舞』
制作年 1936
寸法(タテ×ヨコ) 233.0×141.3
技法等 絹本彩色
重要文化財
東京藝術大学大学美術館
[情報]
上村松園 (1875-1949)
『母子』の項を合わせて参照。
『序の舞』について松園は次のように語っている。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです。」
小倉遊亀 (おぐら ゆき) 『浴女 その一』 『浴女 その二』
制作年 1938 (その一) 1939(その二)
寸法(タテ×ヨコ) 210.0×176.0 / 212.0×152.5
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
小倉遊亀 (1895-2000)
上村松園とともに日本を代表する女流画家。1932年、37歳で女性初の日本美術院の同人(どうにん)となり、後年、理事長も務めている。
彼女が本格的な活動をはじめた昭和初期は、明治以降の日本画がひとつの頂点を極めるとともに、新たな展開を求められていた時代であった。『浴女 その一』を発表し画壇に新風を吹き込んだ遊亀は、戦後も次々と意欲作を発表し 日本画の新たな表現に果敢に挑戦していった。
『浴女 その一』は、当時の日本画としては珍しいヌードの女性を描いてるが、湯に浸かる肌の色と裸体のしなやかな輪郭線に清廉な女性美を見出している。また点と線、直線と曲線、線描と着彩、白色と緑色、二人の女性など、対比することで差異は強調され、見る楽しさが増す。小倉遊亀の作品は、豊かな日常感覚に支えられた明るく明快な造形によって、多彩な魅力に満ちている。
『浴女 その二』は、翌年に発表した作品で『その一』と対になっている。
川合玉堂 (かわい ぎょくどう) 『彩雨』
制作年 1940
寸法(タテ×ヨコ) 87.7×116.7
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
川合玉堂 (1873-1957)
『行く春』の項を合わせて参照。
『彩雨』は、日本の原風景とそこに生活する人々を、独自の温和な風景描写で情緒豊かに描き出した作品。玉堂は晩年にかけて、現代人に郷愁を抱かせる、このような日本の良き風景の作品を多く手掛けている。
鏑木清方 (かぶらき きよかた) 『一葉』
制作年 1940
寸法(タテ×ヨコ) 143.6×79.4
技法等 絹本着色
東京藝術大学大学美術館
[情報]
鏑木清方 (1878-1972)
近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。
『一葉』は、「雨の夜」という一葉の随筆を読んだ後に描いた作品。鏑木清方は樋口一葉に心酔しており、一葉を題材とした作品も多い。
東山魁夷 (ひがしやま かいい) 『残照』
制作年 1947
寸法(タテ×ヨコ) 151.5×212.0
技法等 紙本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
東山魁夷 (1908 - 1999)
「昭和の国民画家」と称され、現代日本画を代表する画家として活躍した。自然風土を深い郷愁をたたえた作風で詩情豊かに描き続けた。
『残照』は、1947年の戦後第3回日展で特選を得た作品で、これが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。
田中一村 (たなか いっそん) 『白い花』
制作年 1947
寸法(タテ×ヨコ) 二曲一隻 169.6x199.8
技法等 絹本彩色
田中一村記念美術館(寄託)
[情報]
田中一村 (1908-1977)
清貧の中、50歳の時に奄美大島に移り住む。そこで、亜熱帯の植物や鳥などを鋭い観察により繊細に描きだし、独特の画風と独自の画境を確立した。しかし、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
『白い花』は、1947年、川端龍子主催の第19回青龍社展に入選した作品。後年の奄美時代の作品ではないが、一村が生きているうちに認められた唯一の作品なのだろう。しかし一村は、この後、川端と意見が合わず青龍社からも離れることになる。
山口蓬春 (やまぐち ほうしゅん) 『山湖』
制作年 1947
寸法(タテ×ヨコ) 72.0×153.0
技法等 紙本彩色
山口蓬春記念館
[情報]
山口蓬春 (1893-1971)
東京美術学校入学後、洋画から日本画へ転科し松岡映丘の指導を得る。しかし、新しい日本画の創造を目指し、流派を超えた交流のなかで独自の絵画領域を広げていく。戦後は、新日本画への姿勢がより一層明確に打ち出され、知的でモダンなスタイルを確立する。
『山湖』は、戦後、日本画が急速に西欧近代絵画を吸収するなかで、漫然とした概念的な自然描写を排した「もっと明るく、もっと複雑な、もっと強い、もっとリズミカルな」表現を目指して、卓越した感性によって、新鮮な画面、明るく近代的な造形を創造した、一連の「蓬春モダニズム」の最初の作品。
高山辰雄 (たかやま たつお) 『少女』
制作年 1949
寸法(タテ×ヨコ)
技法等 絹本彩色
大分市美術館
[情報]
高山辰雄 (1912-2007)
髙山は、東山魁夷、杉山寧と並んで日展三山と評され、昭和の日本画壇をけん引してきた。晩年の作品は、筆を細かく打ちつけるような点描風のタッチが重ねられ、独特の空気感で画面が埋め尽くされている。
人間、風景、静物などを題材に、幻想的な深い色彩で神秘的な心象を描き出してきた。
『少女』は、1949年(昭和24年)の日展で特選となった比較的初期の作品。作風にはゴーギャンの影響がみられる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。
東山魁夷 (ひがしやま かいい) 『道』
制作年 1950
寸法(タテ×ヨコ) 134.4×102.2
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
東山魁夷 (1908 - 1999)
『残照』の項を合わせて参照。
『道』は、『残照』に引き続きいて大きな評価を得た魁夷の代表作。「遍歴の果てでもあるし、遍歴の始まりでもある道を描きました。」
伊東深水 (いとう しんすい) 『夢多き頃』
制作年 1952
寸法(タテ×ヨコ) 145.5×177.9
技法等 彩色
足立美術館
[情報]
伊東深水 (1898-1972)
鏑木清方に入門。浮世絵の流れを汲む風俗画家として、伝統を継承しながら、常に新しい画風を試み制作活動を行った。描写力に優れ、健康的で明朗な美人画を描き、多くの人に親しまれた。
『夢多き頃』は、 独自の群像形式を確立した記念碑的な作品。モデルは、自分の娘の朝丘雪路らしい。
横山大観 (よこやま たいかん) 『或る日の太平洋』
制作年 1952
寸法(タテ×ヨコ) 135.0×68.5
技法等 紙本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
横山大観 (1868-1958)
『無我』の項を合わせて参照。
敗戦直後の日本画を取り巻く状況は、伝統的、国粋的思潮に対する否定と、自由主義、民主主義の台頭であった。多くの画家が価値の転換を迫られたのかもしれない。しかし華麗な画歴をほこる横山大観は、動ずることなく自らの姿勢を守り通した。
『或る日の太平洋』は、逆巻く波涛の彼方に霊峰富士を望み、海中に龍をひそませた晩年の傑作。時代の流れに抵抗する老画家の強固な意志が込められているのかもしれない。
横山操 (よこやま みさお) 『塔』
制作年 1957
寸法(タテ×ヨコ) 317.0×134.0
技法等 綿布彩色
東京国立近代美術館
[情報]
横山操 (1920-1973)
横山操の作風は、力強い漆黒と、にじみ出てくるような鮮やかな色が特徴的で、作品にはほとばしる激情と、深い寂寥感が混在する。見た目には洋画に近い。
戦後の日本画においてひときわ個性的な存在であったが、同じく昭和期に活躍した加山又造とともに日本画壇をリードしてきた。シベリア抑留の経験を持つ。
『塔』は、第29回青龍展出品作。東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描いたもの。ダイナミックかつ抽象的で前衛書道のような趣がある。
山本丘人 (やまもと きゅうじん) 『真昼の火山』
制作年 1959
寸法(タテ×ヨコ)
技法等 紙本彩色
山種美術館
[情報]
山本丘人 (1900-1986)
日本画革新運動の指導者として活躍。厳しい自然を骨太に描いた力強い画風から、晩年はより詩精神の高い抒情的作風を示した。弟子に上村松篁や加山又造。
『真昼の火山』では、金銀の箔や泥(でい)に対して斬新なアプローチを行い、山の力強さを表現している。
奥村土牛 (おくむら とぎゅう) 『鳴門』
制作年 1959
寸法(タテ×ヨコ) 128.5x160.5
技法等 紙本彩色
山種美術館
[情報]
奥村土牛 (1889-1990)
梶田半古に入門、半古と兄弟子の小林古径の指導を受ける。大器晩成であったが、戦後は現代日本画を代表する傑作を多く発表した。
『鳴門』は、奥村土牛自身の最高傑作の一作であり、近代日本画のなかでも傑作の一つに数えられることの多い作品。群青、白緑、胡粉をていねいに塗り重ね、海の深さと渦の激しさを表現している。
平山郁夫 (ひらやま いくお) 『入涅槃幻想』
制作年 1961
寸法(タテ×ヨコ) 178.5×224.0
技法等 紙本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
平山郁夫 (1930-2009)
日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。アジア地域における文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広い。
広島で被爆経験をしている。作品には仏教をテーマとしたものが多い。
『入涅槃幻想』は、第46回院展で日本美術院賞(大観賞)を受賞、平山郁夫の画家としての評価を決定づけた。
横山操 (よこやま みさお) 『ウォール街』
制作年 1962
寸法(タテ×ヨコ) 271.5×136.5
技法等 紙本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
横山操 (1920-1973)
『塔』の項を合わせて参照。
アメリカ旅行の成果の一点。「ニューヨークに来て初めて《ビルの谷間》という言葉の本当の意味を実感させられた。」
安田靫彦 (やすだ ゆきひこ) 『飛鳥の春の額田王』
制作年 1964
寸法(タテ×ヨコ) 131.1×80.2
技法等 紙本彩色
滋賀県立近代美術館
[情報]
安田靫彦 (1884-1978)
前田青邨と並ぶ歴史画の大家。小堀鞆音に師事。青邨らと共に紫紅会(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し紅児会)を結成。晩年には要職を歴任。門下に小倉遊亀。
『飛鳥の春の額田王』は、戦後における安田靫彦の最高傑作のひとつとして、また、戦後の日本画の中でも傑出した作品のひとつと位置付けられている。とぎすまされた線描、鮮やかな色彩感など、画格の高い表現が見どころ。
加山又造 (かやま またぞう) 『春秋波濤』
制作年 1966
寸法(タテ×ヨコ) 169.5×363 六曲一隻
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館
[情報]
加山又造 (1927-2004)
山本丘人に師事。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した。
『春秋波濤』は、伝統的な手法と画題を現代風にアレンジした屏風の大作の一つ。一見ではありえない風景描写であるが、琳派の装飾性を現代のアーティストが展開するとこうなるのだろう。
解説によれば、金が散りばめられた3つの山の間を、銀の線で表された波がうねっている。波は山よりも月よりも高く、その先には細く切った銀色の箔が集められ、水しぶきが輝いているよう。山を覆う桜と紅葉は、春と秋というふたつの季節を表現している。
片岡球子 (かたおか たまこ) 『山(富士山)』
制作年 1967
寸法(タテ×ヨコ)
技法等 絹本彩色
北海道立近代美術館
[情報]
片岡球子 (1905-2008)
ゲテモノが突き抜けたときその絵力は日本画の世界を超え、強烈なエネルギーは広く現代の絵画に大きな問いかけを放ちつづけた。「面構(つらがまえ)」シリーズも有名。
『山(富士山)』では、大胆な形態の把握、鮮やかな色彩の使用によって片岡球子の個性的な画風が確立された。
東山魁夷 (ひがしやま かいい) 『年暮る』 (としくる)
制作年 1968
寸法(タテ×ヨコ)
技法等 紙本彩色
山種美術館
[情報]
東山魁夷 (1908 - 1999)
『残照』の項を合わせて参照。
『年暮る』は、年暮る京都鴨川沿い、東山三条あたりの風景。低く連なる町屋の屋並みに雪がしんしんと降り積もる。ひっそりとした手前の道路からはさっきまでの往来が伺え、家に灯る明かりに生活の温もりが伝わってくる。彼方から響く除夜の鐘。年の瀬の京都、切り取ってでも残しておきたい瞬間。
田渕俊夫 (たぶち としお ) 『ヨルバの花』
制作年 1968
寸法(タテ×ヨコ) 130.0×160.0
技法等 彩色
名古屋市美術館
[情報]
田渕俊夫 (1941- )
圧倒的な技術と優れた色彩感覚で、日本画の素晴らしさを再確認させる作品を生み出し続けている。中心的な画題は植物と風景。
現代の街角を積極的に描くなど画題の拡大という点で革新性が顕著ではあるものの、古くからの日本絵画の重要な特質である装飾性と精神性という伝統を継承している。
『ヨルバの花』は、藝大大学院卒業後の約10ヶ月に及ぶナイジェリア滞在の後に描いた初期の頃の作品。
奥村土牛 (おくむら とぎゅう) 『醍醐』
制作年 1972
寸法(タテ×ヨコ) 135.5×115.8
技法等 紙本彩色
山種美術館
[情報]
奥村土牛 (1889-1990)
『鳴門』の項を合わせて参照。
『醍醐』は、桜の名所、京都の醍醐寺の境内に悠然と立つ樹齢150年のしだれ桜を描いたもの。輪郭があいまいにもかかわらず、奥行きと質感を感じさせる花びらは、薄い色を100回以上も塗り重ねて行く土牛ならではの手法によって生み出されたもの。日本画史に残る傑作。
千住博 (せんじゅ ひろし) 『遥か(青い鳥)』
制作年 1978
寸法(タテ×ヨコ)
技法等 紙本彩色
軽井沢千住博美術館
[情報]
千住博 (1958- )
国際的に活躍する日本の俊英。現代の新しい絵画の担い手として注目される。弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子。
『遥か(青い鳥)』は、藝大へ入学(二浪)した1978年に制作した作品。すでに才能、社会的洗練さ、高い精神性、意思の強さのようなものが感じられる。
卒業後は、模索しながらも、自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針とする。
田渕俊夫 (たぶち としお ) 『濃尾三川』 (のうびさんせん)
制作年 1979
寸法(タテ×ヨコ) 130.0×162.0
技法等 彩色
箱根・芦ノ湖 成川美術館寄託
[情報]
田渕俊夫 (1941- )
『ヨルバの花』の項を合わせて参照。
田渕の風景画は、抑制された装飾性で印象的な景観を一気に仕上げているようにも見えるが、そこには悠久の時への感動が込められている。
『濃尾三川』は、上空からなので写生はろくにできなかったそうで、地図を斜めから見て川の形を決め、後は覚えている情景を描きこんで仕上げられた。
上村松篁 (うえむら しょうこう) 『丹頂』
制作年 1980
寸法(タテ×ヨコ) 2278×157.0
技法等 彩色
松伯美術館
[情報]
上村松篁 (1902-2001)
当初は帝展・日展で主に作品を発表したが、1948年(昭和23年)に日展を離れ、山本丘人ら数名の画家と共に新団体『創造美術』を結成。徹底した写実に基づいた格調の高い花鳥画を得意とし、多くの名作を残した。1984年(昭和59年)文化勲章を受章。ちなみに母・上村松園も文化勲章を受章しており、親子2代での文化勲章受章は史上初となった。
『丹頂』は、一途に花鳥の世界を描き続けた画家が、鳥たちと触れ合い、写生を重ねて描いた、穏やかで美しい丹頂の絵。独自の表現を手に入れるべく、試行錯誤して辿り着いた境地。78歳の作。