作品紹介
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作品紹介

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河鍋暁斎 (かわなべ きょうさい) 『地獄太夫と一休』

地獄太夫と一休 制作年 1870s...1880s
寸法(タテ×ヨコ) 149×70.1
技法等 絹本着色、金、銀

ボストン美術館

[情報]
河鍋暁斎 (1831-1889)
幕末に生まれ、6歳で浮世絵師歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じてその正統的な修業を終え、幕末明治には「画鬼」と称されて絶大な人気を博した。
お雇い外国人として来日していた英国の建築家ジョサイア・コンドルは暁斎に弟子入りする。その筆力・写生力は群を抜き、多くの戯画や風刺画を残している。
『地獄太夫と一休』の地獄太夫とは、一休宗純から教えを授けられた堺の遊女。地獄太夫は幕末から明治にかけて流行した画題だが暁斎は特にこれを好み、版画・肉筆問わずしばしば描いている。

狩野芳崖 (かのう ほうがい) 『悲母観音』

悲母観音 制作年 1887
寸法(タテ×ヨコ) 198.5×86.1
技法等 絹本彩色
重要文化財
東京藝術大学大学美術館

[情報]
狩野芳崖 (1828-1888)
近代日本画の父といわれる。雅邦らとともに、約400年に渡って活動した狩野派の最後を飾った。明治維新後に西洋文化か流れ込むなか不遇をかこったが、フェノロサに導かれ、西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた新しい日本画の創生に貢献した。
『悲母観音』は芳崖の絶筆であり、畢生の作。盟友の雅邦が仕上げを任された。




橋本雅邦 (はしもと がほう) 『竜虎図』

龍図 制作年 1895
[ 上:龍図 下:虎図 ]
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 六曲一双
技法等 絹本彩色
重要文化財
静嘉堂文庫美術館

虎図

[情報]
橋本雅邦 (1835-1908)
7歳年上の芳崖とは同じ狩野派の画塾出身。共に競い合いながら頭角をあらわし、先にフェノロサの庇護を受けていた芳崖とともに新しい表現技法を模索するようになる。
東京美術学校(現・東京藝術大学)開校に際しては、開校を待たずに死去した芳崖の代わりに絵画科の主任となる。名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めたが、美術学校騒動により岡倉天心が校長を辞任すると、雅邦も職を辞し、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。
『竜虎図』は雅邦にとっても異色の意欲作であり、発表当時においては出色の斬新さゆえに評価が分かれたが、現在では記念碑的作例として高い評価を得ている。

横山大観 (よこやま たいかん) 『無我』

無我 制作年 1897
寸法(タテ×ヨコ) 102.1×55.0
技法等 絹本彩色
水野美術館

[情報]
横山大観 (1868-1958)
言わずと知れた近代日本画壇の巨匠。第1回文化勲章受章者。
東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山などがいる。東京美術学校の助教授職に就任するも、2年後の1898年に起きた美校騒動による天心失脚に従って職を辞し、同年日本美術院創設に参加する。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表するが、当時の風潮の中では「朦朧体」と揶揄され猛烈に批判された。その後、大観は春草と共に海外を周遊しながらインド、アメリカ、ヨーロッパで展覧会を開くなどし、欧米で高い評価を受ける。日本国内でもその画風が評価され始め、以後、日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き上げる。
『無我』は、大観の人物画として人気の高い作品。巨匠・大観の一つの側面が伝わってくる。

横山大観 (よこやま たいかん) 『屈原』 (くつげん)

屈原 制作年 1898
寸法(タテ×ヨコ) 132.7×289.7
技法等 絹本彩色
厳島神社

[情報]
横山大観 (1868-1958)

『無我』の項を合わせて参照。
『屈原』は、中国・楚の時代に失脚した政治家を、同じく東京美術学校を追われた天心に例えて描いた一枚。広く世界に目を向けながら新しい日本画の創造を目指す中で、騒動の原因とも言える権力争いの卑俗さに強い憤りを感じたのは想像に難くない。
画中人物の感情表現の激しさで注目を集める作品であるが、屈原の姿を借りて、日本画における新しい表現としての感情描写を試みた一作とも言える。

下村観山 (しもむら かんざん) 『木の間の秋』

右隻 左隻 制作年 1907
[ 上:右隻 下:左隻 ]
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 二曲一双
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館

[情報]
下村観山 (1873-1930)
最初は狩野芳崖に、その没後は橋本雅邦に師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後に同校で教鞭をとっていたが、岡倉天心が野に下った際、同じ岡倉門下生の横山大観、菱田春草らと行動を共にして美校を去り、日本美術院の創設に参加した。
『木の間の秋』は観山の代表的作品といわれる。琳派を意識しながらも多彩で重層的な描写により奥行きの深い画面を構築している。
他に代表作 『弱法師』(よろぼし) (東京国立博物館蔵)が重要文化財指定されている。

菱田春草 (ひしだ しゅんそう) 『落葉』

右隻 制作年 1909
[ 上:右隻 下:左隻 ]
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 六曲一双
技法等 紙本彩色
重要文化財
永青文庫美術館

左隻

[情報]
菱田春草 (1874-1911)
横山大観と春草はともに行動しながら明治期の日本画の革新に貢献したが、大観が長生きしたのに対し、春草は37歳足らずでその生涯を終えている。
「朦朧体」や色彩点描技法など、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした。
代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。伝統的な屏風形式を用いながら、空気遠近法(色彩の濃淡や描写の疎密で、遠くの事物と近くの事物を描き分ける)を用いて日本画の世界に合理的な空間表現を実現した名作であり、天才・春草の才能がいかんなく発揮された近代日本画史上における傑作として名高い。
なお、同じモチーフでいくつかの『落葉』が描かれている。

菱田春草 (ひしだ しゅんそう) 『黒き猫』

黒き猫 制作年 1910
寸法(タテ×ヨコ) 掛け軸 150.4×51.0
技法等 絹本彩色
重要文化財
永青文庫美術館

[情報]
菱田春草 (1874-1911)
『落葉』の項を合わせて参照。
『黒き猫』は、近代日本画でもっとも有名な猫と言われ、多くの芸術家がこの猫に魅了されてきた。
天才的な発想と卓越した技法を駆使し、病に侵されながら、死の前年にたった5日間で描き上げた快作。

小林古径 (こばやし こけい) 『極楽井』 (ごくらくのい)

極楽井 制作年 1912
寸法(タテ×ヨコ) 193.5×100.8
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館

[情報]
小林古径 (1883-1957)
梶田半古に日本画を学び、39歳の1922年(大正11年)より前田青邨と共に渡欧留学。
古径は日本画が本来もっている特質に深く根ざしながら、近代という新しい時代にふさわしい日本画を創造し続けた。
『極楽井』は、それまでの歴史画の集大成であるとともに、大正ロマン主義という時代思潮と呼応する、ロマン的な香りを感じさせる画風への展開を示すものとなった。

川合玉堂 (かわい ぎょくどう) 『行く春』

右隻 制作年 1916
[ 上:右隻 下:左隻 ]
寸法(タテ×ヨコ) 屏風 六曲一双
技法等 絹本彩色
重要文化財
東京国立近代美術館

行く春

[情報]
川合玉堂 (1873-1957)
橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)には当初より参加。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。
温雅なそして清澄な気品ある作風を展開して、近代日本画の形成に一役割を果たした。
『行く春』は、玉堂壮年期の旺盛な制作意欲を示す大作。

松岡映丘 (まつおか えいきゅう) 『春光春衣』 (しゅんこうはるい)

春光春衣 制作年 1917
寸法(タテ×ヨコ) 
技法等 絹本彩色
山種美術館

[情報]
松岡映丘 (1881-1938)
民俗学者の柳田國男は実兄。家庭環境の面からも、日本の歴史・文化に深い理解を持っていた。東京美術学校教授として山口蓬春、山本丘人、橋本明治、杉山寧、髙山辰雄など数多くの優秀な人材を育てた有能な指導者としても知られている。
歴史画や武者絵を好んで描いた。
『春光春衣』は、平安後期という時代性を意識した華麗な装飾的表現の作品。古い時代の絵画を参考に、金砂子や切箔を散らしたなんとも華やかな一幅。

竹久夢二 (たけひさ ゆめじ) 『黒船屋』

黒船屋 制作年 1919
寸法(タテ×ヨコ) 130.0×50.6
技法等 絹本彩色
竹久夢二伊香保記念館

[情報]
竹久夢二 (1884-1934)
大正ロマンと言えば誰もが夢二を思い浮かべるほど、この時代のロマン思潮を代表する画家として親しまれている。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、一度見ると忘れ難い。
大衆人気という形で脚光を浴びたものの、中央画壇とは趣を異にし、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。
『黒船屋』のモデルは、彦乃説、お葉説がある。数々の女性遍歴で浮き名を流した夢二ではあったが、彦乃との別離とその死を経て、彦乃は夢二にとって永遠の恋人となった。

小野竹喬 (おの ちっきょう) 『夏の五箇山』

夏の五箇山 制作年 1919
寸法(タテ×ヨコ) 四曲一隻 166.3×274.8
技法等 絹本彩色
笠岡市立竹喬美術館

[情報]
小野竹喬 (1889-1979)
竹内栖鳳の門下となり、また、京都市立絵画専門学校にて土田麦僊や村上華岳らと交流する。二人とは1918年の国画創作協会創設に参画し、個性の尊重など新機軸を高らかに謳いあげた。東洋と西洋の融合を模索し、西洋美術に深い関心を示すなか1921年には麦僊らと渡欧、西洋絵画の底知れぬ力量の前に衝撃を受ける。帰国後は次第に東洋に回帰し、日本の自然を詩情豊かに描き、風景画に独自の画境を拓いた。
50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、豊かな色彩と爽やかな画風、穏やかな人柄で多くの人々に親しまれた。
『夏の五箇山』は、渡欧前に描かれた作品で、群青や緑青を多用した濃厚な色彩表現には、セザンヌやゴーガンからの影響が指摘されている。

村上華岳 (むらかみ かがく) 『裸婦図』

裸婦図 制作年 1920
寸法(タテ×ヨコ) 163.6x109.1
技法等 絹本彩色
重要文化財
山種美術館

[情報]
村上華岳 (1888-1939)
1918年、京都市立絵画専門学校の同窓であった土田麦僊、小野竹喬らの若手日本画家とともに国画創作協会を設立する。これは、文展の審査のあり方に疑問を抱いた若い画家たちが、西洋美術と東洋美術の融合による新たな絵画の創造を目ざして旗揚げしたもので、近代日本画革新運動の重要な足跡として、美術史上に特筆されている。
『裸婦図』への本人談、「私はその眼に観音や観自在菩薩の清浄さを表わそうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊であるものの美しさ、髪にも口にも、まさに腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした、それが私の意味する『久遠の女性』である。」
日本画の一つの到達点なのでしょう。

竹内栖鳳 (たけうち せいほう) 『班猫』

班猫 制作年 1924
寸法(タテ×ヨコ) 81.9x101.6
技法等 絹本彩色
重要文化財
山種美術館

[情報]
竹内栖鳳 (1864-1942)
近代日本画の先駆者で、戦前の京都画壇を代表する大家。東の大観、西の栖鳳とも称された。大観と同様、第1回文化勲章受章者。
その画風は四条派を基礎としているが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担った。36歳の時には、7ヶ月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどからの影響も受けている。
弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。上村松園をはじめ、土田麦僊、小野竹喬、橋本関雪ら名だたる俊英を輩出している。また、動物画に連なる名手として、西村五雲、山口華楊がいる。
『班猫』は、「究極の猫」とも言われている。その極意は「写実を突き詰め、突き抜け、写意に至る」。

土田麦僊 (つちだ ばくせん) 『舞妓林泉』 (ぶぎりんせん)

舞妓林泉 制作年 1924
寸法(タテ×ヨコ) 217.7x102.0
技法等 絹本彩色
東京国立近代美術館

[情報]
土田麦僊 (1887-1936)
村上華岳、小野竹喬らとともに国画創作協会(村上華岳『裸婦図』の項参照)を立ち上げ、中心的存在として意欲的に活動した。
ルノワールやゴーギャンに傾倒し、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた新たな絵画の創造を目指していた。
1921年には竹喬らとともに渡欧し、約1年半(竹喬は約半年で帰国)に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。
『舞妓林泉』は、渡欧旅行の帰国後に制作された作品で、その遊学の成果が表れている。



速水御舟 (はやみ ぎょしゅう) 『炎舞』

炎舞 制作年 1925
寸法(タテ×ヨコ) 120.3x53.8
技法等 絹本彩色
重要文化財
山種美術館

[情報]
速水御舟 (1894-1935)
御舟の画業は、初期には「新南画」と言われた今村紫紅の影響を受け、琳派の装飾的画面構成や西洋画の写実技法を取り入れつつも、1つの様式にとどまることなく、写実に装飾性と象徴性を加味した独自の画境を切り拓いた。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと発展する。日本画の将来の担い手として嘱望されたが、40歳のとき腸チフスで急逝した。
『炎舞』は、御舟の最高傑作として、また近代日本画史上における傑作として名高い。作品では、蛾が炎に魅せられているかのように舞う、緻密な写実と幻想が融合している。背景の闇は黒に朱を混ぜ、礬水(どうさ)を引かずに絵具が絹面ににじむようにして描いたもので、単なる黒ではない深い闇を表現している。